第33番札所 高福山 幸福院 雪蹊寺

こうふくざん こうふくいん せっけいじ
【寺の歴史】
土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られています。幕末の志士、坂本龍馬の銅像でも有名です。雪蹊寺はそこから西へ4キロほどにあります。

雪蹊寺の縁起には3つの特色が記されています。1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない、臨済宗妙心寺派の寺院であること。815年に弘法大師が開創したころは真言宗で「高福寺」と称しました。その後、寺名を「慶運寺」と改めます。廃寺となっていた寺を再興したのは、戦国時代(1467-1590)の土佐領主・長宗我部元親公です。元親の宗派である臨済宗から、月峰和尚を初代住職として招き、中興の祖としました。元親の死後は四男の盛親が後を継ぎ、長宗我部家の菩提寺と定め、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改めました。

2つ目は、鎌倉時代(1185-1333)の高名な大仏師、運慶とその長男湛慶がこの寺に滞在し、仏像を彫ったこと。運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像、湛慶は毘沙門天像や吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造しました。一時、当寺が「慶運寺」と名乗ったのはこうした由縁です。運慶の弟子の道運、海覚作の12神将も合わせて、仏像16体が日本重要文化財に指定されています。

3つ目は、「南学発祥の道場」といわれたこと。江戸(1603-1868)初期の住職、天質和尚が朱子学南学派の祖として活躍し、谷時中野中兼山などのすぐれた儒学者を寺から数多く生みだしています。また、雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧でした。

【太玄塔】
17代住職、山本太玄の供養塔です。廃仏毀釈で廃寺となった雪蹊寺を復興させた名僧であり、次の18代・玄峰和尚の師でもあります。

【玄峰塔】
18代住職・山本玄峰の供養塔です。玄峰は若いころ失明に近い状態になり、裸足で7回の遍路を行いました。その道中に行き倒れているところを太玄和尚に救われ、寺で働き始めます。のちには「昭和の傑僧」といわれるほどの人物になりました。終戦時の首相、鈴木首相からも、戦争をいかに終わらせるかという相談も受けたと言います。玄峰は「天皇は象徴である。日本は負けて勝つべき」という旨を説き、昭和天皇の有名な文言「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」につながる文を首相宛の書簡に書いたと言われています。96歳の生涯。

【その他見どころ】
・月法和尚基
・信親の墓(長宗我部元親の長男。豊臣秀吉の九州征伐に従い、豊後で家臣700人と討ち死にしました)
・観音堂天女絵
・運慶、堪慶作他16体重要文化財仏像(仏像拝観は要予約)

【年中行事】
・節分厄除け/般若心経百巻続経
日時:2月3日
・花まつり
日時:旧暦4月8日
・盆/ソトバ供養
日時:7月 第1日曜日
・施餓鬼
日時:10月 第2日曜又は第3日曜日
・除夜の鐘/そば接待
日時:12月31日
・安産子安地蔵祭
日時:7月 第3日曜日


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住所 〒781-0270 高知県高知市長浜857-3
電話番号 088-837-2233
アクセス 高知インターチェンジから、はりまや橋方面へ向い、県道34号線から、高知南郵便局先の交差点を右折100m駐車場。
又は、瀬戸バイパスに上り雪蹊寺別れ左に降り左側20m駐車場。
土佐電交通長浜下車。
駐車場 普通なら10台・マイクロバスなら5台・大型なら3台(午前6時〜午後6時)
駐車場代 志納金「隣接の奉神社の土地」
備考 宿坊:あり(夜具なし)17:00までに入れのこと