【寺の歴史】
青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡ります。1973年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡っていました。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡りました。お供は8人いたといいます。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられています。
804年に弘法大師は唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学びました。そして、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となると、806年に帰朝しました。縁起では、弘法大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようとしました。東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願したといいます。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去りました。
帰朝後、大師がこの地で巡教をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上しました。弘法大師は815年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置しました。寺名は恩師に因み「青龍寺」、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」と名づけました。
明治(1868-1912)のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹でした。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられています。いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されています。
【愛染明王坐】
木造、本堂に安置。国の重要文化財。不動明王像と一対に祀られ、苦しみのすべてを救いとってくれるといいます。
【奥の院】
境内から南約600m、横浪半島突端の太平洋に落ちそうな所にあります。石造の不動明王像が祀られ、長年女人禁制でした。
【その他見どころ】
・横浪県立自然公園(北側は浦ノ内湾、南には雄大な太平洋の景観を楽しめる公園)
青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡ります。1973年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡っていました。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡りました。お供は8人いたといいます。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられています。
804年に弘法大師は唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学びました。そして、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となると、806年に帰朝しました。縁起では、弘法大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようとしました。東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願したといいます。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去りました。
帰朝後、大師がこの地で巡教をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上しました。弘法大師は815年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置しました。寺名は恩師に因み「青龍寺」、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」と名づけました。
明治(1868-1912)のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹でした。また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられています。いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されています。
【愛染明王坐】
木造、本堂に安置。国の重要文化財。不動明王像と一対に祀られ、苦しみのすべてを救いとってくれるといいます。
【奥の院】
境内から南約600m、横浪半島突端の太平洋に落ちそうな所にあります。石造の不動明王像が祀られ、長年女人禁制でした。
【その他見どころ】
・横浪県立自然公園(北側は浦ノ内湾、南には雄大な太平洋の景観を楽しめる公園)
- エリア
- 高知県中部
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 〒781-1165 高知県土佐市宇佐町竜163 |
---|---|
電話番号 | 088-856-3010 |
アクセス | 土佐インターチェンジから、国道56号線、県道39号線を通り、土佐市宇佐町へ。県道23号線・県道47号線を海沿いに走り、バス停留所を右折します。 |
駐車場 | 普通20台 |
駐車場代 | 無料 |