空也上人の息吹が残された名刹
寺の歴史
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立っています。浄土寺は空也上人(903-72)の姿がいまに残る寺です。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚する姿。「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が脳裏に浮かびます。空也上人は遊行僧、念仏聖です。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救いました。また、広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養したそうです。
浄土寺は、この空也上人像を本堂の厨子に安置しています。縁起によると、天平勝宝年間(749-757)に女帝・孝謙天皇(在位749-58)の勅願寺として、恵明上人が当寺を開創しました。本尊は行基菩薩(668-749)が彫造した釈迦如来像です。当時は法相宗の寺院だったといいます。のちに弘法大師が訪れて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗しました。以来寺運は栄え、寺域は76万平方メートルにおよび、66坊の末寺をもつほどになりました。
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代(794-1185)中期のころ。天徳年間(957-61)の3年間、村人たちへの教化に努め、村人たちから親しまれました。1192年には、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復しています。しかし、1416年の兵火で焼失。文明年間(1469-87)に領主、河野道宣公によって再建されました。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、1961年に解体修理をされています。和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されています。
その他見どころ
三蔵院(浄土宗の開祖・法然上人、1世・聖光上人、2世・良忠上人の自作像が安置されていた。この三像は昭和20年の松山空襲で出開帳先の寺で全焼している)
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立っています。浄土寺は空也上人(903-72)の姿がいまに残る寺です。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚する姿。「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が脳裏に浮かびます。空也上人は遊行僧、念仏聖です。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救いました。また、広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養したそうです。
浄土寺は、この空也上人像を本堂の厨子に安置しています。縁起によると、天平勝宝年間(749-757)に女帝・孝謙天皇(在位749-58)の勅願寺として、恵明上人が当寺を開創しました。本尊は行基菩薩(668-749)が彫造した釈迦如来像です。当時は法相宗の寺院だったといいます。のちに弘法大師が訪れて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗しました。以来寺運は栄え、寺域は76万平方メートルにおよび、66坊の末寺をもつほどになりました。
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代(794-1185)中期のころ。天徳年間(957-61)の3年間、村人たちへの教化に努め、村人たちから親しまれました。1192年には、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復しています。しかし、1416年の兵火で焼失。文明年間(1469-87)に領主、河野道宣公によって再建されました。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、1961年に解体修理をされています。和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されています。
その他見どころ
三蔵院(浄土宗の開祖・法然上人、1世・聖光上人、2世・良忠上人の自作像が安置されていた。この三像は昭和20年の松山空襲で出開帳先の寺で全焼している)
- エリア
- 松山市
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 愛媛県松山市鷹子町1198 |
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電話番号 | 089-975-1730 |
アクセス | 松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。天山交差点を右折し、環状線に入ります。枝松交差点を右折し県道40号線を川内方面へ。約3km走り、左折すると正面に見えます。 |
駐車場 | 駐車場:あり ※普通20台・バス4台 |
駐車場代 | 有料 |
備考 | 宿坊:なし |