海路の安全を祈願した寺院
寺の歴史
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えませんでした。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されています。
縁起を紐解きましょう。嵯峨天皇(在位809-23)の勅願により、弘法大師がこの地を巡教したのは弘仁年間(814-824)のころです。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法しました。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂いました。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂で堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれます。また、勅願寺ともされました。
栄福寺には神仏混合の歴史もあります。その由来は平安時代(794-1185)に遡ります。859年、大和・大安寺の行教上人は宇佐八幡(大分)の霊告をうけ、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建しようと決意します。そのために近海を航行中、暴風雨によりこの地に漂着しました。すると、府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることを知ります。行教上人は境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建しました。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれます。「四国五十七番」と共に、仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っています。
明治新政府の神仏分離令により、寺は山の中腹にある現在地に移転し、また神社と寺が独立しました。現在の大師堂は山頂にあった堂舎を移築したものです。また、栄福寺が所蔵している江戸(1603-1868)中期の手書きの納経帳には「別当 栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当 栄福寺」の名がみられます。このことから、納経を明治維新からではなく、古来より行っていたことがわかります。
その他見どころ
お願い地蔵(参道入口。赤い帽子をかぶっている)
大師堂の十二支彫刻
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えませんでした。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されています。
縁起を紐解きましょう。嵯峨天皇(在位809-23)の勅願により、弘法大師がこの地を巡教したのは弘仁年間(814-824)のころです。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法しました。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂いました。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂で堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれます。また、勅願寺ともされました。
栄福寺には神仏混合の歴史もあります。その由来は平安時代(794-1185)に遡ります。859年、大和・大安寺の行教上人は宇佐八幡(大分)の霊告をうけ、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建しようと決意します。そのために近海を航行中、暴風雨によりこの地に漂着しました。すると、府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることを知ります。行教上人は境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建しました。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれます。「四国五十七番」と共に、仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っています。
明治新政府の神仏分離令により、寺は山の中腹にある現在地に移転し、また神社と寺が独立しました。現在の大師堂は山頂にあった堂舎を移築したものです。また、栄福寺が所蔵している江戸(1603-1868)中期の手書きの納経帳には「別当 栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当 栄福寺」の名がみられます。このことから、納経を明治維新からではなく、古来より行っていたことがわかります。
その他見どころ
お願い地蔵(参道入口。赤い帽子をかぶっている)
大師堂の十二支彫刻
- エリア
- 今治市周辺
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 愛媛県今治市玉川町八幡甲200 |
---|---|
電話番号 | 0898-55-2432 |
アクセス | 今治インターチェンジから国道196号線・317号線を玉川町方面へ向い、県道155号線を左折。蒼社川を越えて右折後、約1km先を左折、直進すると左手にみえます。 |
駐車場 | あり 普通車13台 |
駐車場代 | 普通車100円(冥加料) |
備考 | ※周辺に民営駐車場あり |