【寺の歴史】
寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』があります。一巻の巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、1725年に高野山の僧が筆写したことがわかります。その冒頭に「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書かれています。弘法大師が観音寺を創建され、千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなど、寺史が詳しく記されています。この縁起とは別に寺伝もあります。観音寺は、741年、聖武天皇(在位724-49)が全国68ヶ所に国分寺・国分尼を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立しました。弘法大師がこの地を訪ねているのは816年です。本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされています。
その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、天正の兵火(1573-92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて1659年に宥応法師によって再建され、現在に至っている。1913年、盲目の高松伊之助さんという方が両親につれられて参拝したところ、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納した話が語りつがれています。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、昔の面影を残し、堂々とした風格があります。
【夜泣き地蔵】
子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊です。参拝者は子供の病気平癒、健康と成長を祈願し、ご利益をあずかったお礼によだれかけを奉納します。
【絵馬】
炎に包まれた女性が描かれた奉納額です。本堂内に掲げられています。明治時代にあった四国遍路の実話ともいいます。
【その他見どころ】
・天狗久(人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出しています)
寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』があります。一巻の巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、1725年に高野山の僧が筆写したことがわかります。その冒頭に「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書かれています。弘法大師が観音寺を創建され、千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなど、寺史が詳しく記されています。この縁起とは別に寺伝もあります。観音寺は、741年、聖武天皇(在位724-49)が全国68ヶ所に国分寺・国分尼を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立しました。弘法大師がこの地を訪ねているのは816年です。本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされています。
その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、天正の兵火(1573-92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて1659年に宥応法師によって再建され、現在に至っている。1913年、盲目の高松伊之助さんという方が両親につれられて参拝したところ、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納した話が語りつがれています。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、昔の面影を残し、堂々とした風格があります。
【夜泣き地蔵】
子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊です。参拝者は子供の病気平癒、健康と成長を祈願し、ご利益をあずかったお礼によだれかけを奉納します。
【絵馬】
炎に包まれた女性が描かれた奉納額です。本堂内に掲げられています。明治時代にあった四国遍路の実話ともいいます。
【その他見どころ】
・天狗久(人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出しています)
- エリア
- 徳島県東部
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 〒779-3123 徳島県徳島市国府町観音寺49-2 |
---|---|
電話番号 | 088-642-2375 |
アクセス | 藍住インターチェンジから県道1号線を徳島市内へ行き、国道192号線と合流すると石井町方面へと走っていると看板があるので、それに沿って県道123号線へ。 |
駐車場 | 普通6-7台・マイクロバス1台(午前7時-午後5時) |
駐車場代 | 無料 |