寺の歴史
奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺です。旧境内の全域が、四国で唯一、国の特別史蹟に指定されています。本堂は、前面と背面に桟唐戸のある、鎌倉中期に再建されたものです。また境内地の中心部には、創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が開基した讃岐(いまの香川)の国分寺です。その後、弘仁年間(810-823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代(1185-1333)には西大寺の末寺であったとする記録があり、その頃、現在の本堂が建てられると、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘。大蛇がかぶっていたという伝説とともに次のような話があります。江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったといいます。
その他見どころ
礎石(奈良時代の礎石が残ります)
金堂跡、七重塔跡(広い境内には黒松の大木が樹立します)
大師堂(大師像が直に見えます)
弁財天(国分寺では、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」を祀ります)
年中行事
◇水子総供養大法要修行
日時:6月第1日曜日14時より
奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺です。旧境内の全域が、四国で唯一、国の特別史蹟に指定されています。本堂は、前面と背面に桟唐戸のある、鎌倉中期に再建されたものです。また境内地の中心部には、創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が開基した讃岐(いまの香川)の国分寺です。その後、弘仁年間(810-823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代(1185-1333)には西大寺の末寺であったとする記録があり、その頃、現在の本堂が建てられると、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘。大蛇がかぶっていたという伝説とともに次のような話があります。江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったといいます。
その他見どころ
礎石(奈良時代の礎石が残ります)
金堂跡、七重塔跡(広い境内には黒松の大木が樹立します)
大師堂(大師像が直に見えます)
弁財天(国分寺では、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」を祀ります)
年中行事
◇水子総供養大法要修行
日時:6月第1日曜日14時より
- エリア
- 高松市周辺
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 〒769-0102 香川県高松市国分寺町国分2065番地 |
---|---|
電話番号 | 087-874-0033 |
アクセス | ◆徒歩の場合:JR国分駅から徒歩4分(国分駅JR高松駅/坂出駅から徒歩14分) ◆車の場合:府中湖ICから9分/高松檀紙ICから12分 ◆高速バスの場合:関西方面かた高速バス(フットバス)あり(停留所から徒歩12分) ◆飛行機の場合:高松空港から車で30分 ◆新幹線の場合:岡山で瀬戸大橋への乗り換え・坂出駅から約14分 |
駐車場 | 普通車20台、大型車5~6台、マイクロバス8~9台 ※その他臨時駐車場あり |
駐車場代 | 無料 |
備考 | 宿坊:なし |