寺の歴史
地元では大興寺より、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれています。また、近傍一帯の集落を小松尾と呼びます。
縁起によると、742年に熊野三所権現鎮護のため、東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立されました。792年には弘法大師の巡錫を仰ぎ、822年に嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられます。しかしながら、戦国時代(1467-1590)末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失。慶長年間(1596-1615)に再建されましたが、再び焼亡。本堂は1741年に建立されたものです。
現在の大興寺は真言宗の寺院ですが、往時は真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持ちます。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂がある配置に、その名残を留めています。また、本尊脇侍は不動明王と毘沙門天で、不動明王は天台様式です。
香川県の文化財として指定されているのは次の5件です。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像です。平安(794-1185)後期、伝弘法大師作。檜寄木造り、漆箔です。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は、檜寄木造り彩色、像高77.4センチです。天台大師の彫像は極めて少ないです。弘法大師坐像は近年の調査により、天台大師坐像と同じ1276の作であることが判明し、文化財として指定されました。四国最古の銘のある弘法大師像です。仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられます。鎌倉初期(1185-1333)の作。像高314センチで八十八ヶ所中最大とされます。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがあります。
その他見どころ
参道の榧と楠
地元では大興寺より、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれています。また、近傍一帯の集落を小松尾と呼びます。
縁起によると、742年に熊野三所権現鎮護のため、東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立されました。792年には弘法大師の巡錫を仰ぎ、822年に嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられます。しかしながら、戦国時代(1467-1590)末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失。慶長年間(1596-1615)に再建されましたが、再び焼亡。本堂は1741年に建立されたものです。
現在の大興寺は真言宗の寺院ですが、往時は真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持ちます。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂がある配置に、その名残を留めています。また、本尊脇侍は不動明王と毘沙門天で、不動明王は天台様式です。
香川県の文化財として指定されているのは次の5件です。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像です。平安(794-1185)後期、伝弘法大師作。檜寄木造り、漆箔です。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は、檜寄木造り彩色、像高77.4センチです。天台大師の彫像は極めて少ないです。弘法大師坐像は近年の調査により、天台大師坐像と同じ1276の作であることが判明し、文化財として指定されました。四国最古の銘のある弘法大師像です。仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられます。鎌倉初期(1185-1333)の作。像高314センチで八十八ヶ所中最大とされます。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがあります。
その他見どころ
参道の榧と楠
- エリア
- 香川県西部
- カテゴリ
- 八十八ヶ所霊場(遍路寺)
住所 | 〒768-0101 香川県三豊市山本町辻4209 |
---|---|
電話番号 | 0875-63-2341 |
営業時間 | 参拝自由(お納経7:00~17:00) |
アクセス | 大野原ICから車で約20分、さぬき豊中ICから車で約15分 大野原インターチェンジから高松市内向きに国道11号線・県道240号線・国道377号線を経由して、観音寺市から山本町へ入ります。大興寺の看板を左折して直進、右手に見えてきます。 |
駐車場 | 普通車10台 |
備考 | 宿坊:なし |